渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ

元祖「六本木で働くデータサイエンティスト」です / 道玄坂→銀座→東京→六本木→渋谷駅前

研究者を辞めた時のこと、そしてその後のこと

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TL;DR これは、このブログの本題とは何の関係もない僕自身の回顧録にして懺悔録であり、見ようによっては怪文書です*1。故に、記事中には何の参考になる内容も書かれていないことを予めお断りしておきます。それでも良いという方だけ、この先をお読みください。ただしTL;DRと書いた通りで、超長文につきご注意を。


当時から7年が経ち、この中に登場する人物の中には既にリタイアしている人もいれば、物故している人もいます。ある意味もう時効だろうということで、その時起きたことをつぶさに書いてみることにした次第です。

研究者を辞めた時のこと


それは2011年の秋のことでした。その頃僕は当時所属していたラボの離れの部屋に一人でデスクを持っていたのですが*2、そこに当時のボスがやってきていくつか問答をした後にこういう趣旨のことを僕に告げてきたのでした。


「お前の政治活動に俺は散々迷惑をかけられてきた。本来なら色々あることないこと論って大学公式の懲戒処分にかけて懲戒解雇にしてやりたいところだが、雇い止めで勘弁してやる。今年度末でこのラボから出ていけ」


つまり「お前はクビだ」*3だといきなり言われたわけです。結果的にこれがその後の僕の人生とキャリアを大きく狂わせましたが、実はここでクビを言い渡されたことは僕が研究者を辞めた経緯のごく一部に過ぎません。その背景も含めて、以下に当時のことを思い出しながら綴ってみます。

研究者の道を目指した理由


僕は学部時代は東大の計数工学科に属していましたが、数学が大の苦手なのもあって計測工学(現・システム情報学)コースの学生でした。故に、現在僕が仕事で使っている統計分析や機械学習などの分野ではなく*4、どちらかと言うと制御工学とか信号処理工学とか生体計測といった分野を専攻していました。


また、僕は割と早い時期から研究者の道に進みたいという意欲を持っていました。実は僕の実家の親父も東大の博士を出ているのですが、学生結婚したこともあって当時オーバードクター問題*5が深刻化していた中、新婚の奥さん(つまりお袋)を放っておいて無職生活を続けるわけにはいかないということで、博士課程を修了した後は直ちにラボの教授の推薦で企業に勤めていました。その経緯について親父は後年も複雑な感情を抱いていたようであり、またそれを息子の自分も感じていたので、ある意味では「親父が叶えられなかった夢を代わりに叶えて、親父を越えてみたい」という気持ちもあったのでした。


加えて、ロスジェネど真ん中世代としては学部・修士のいずれの新卒就活の機会も極め付けの大不況に見舞われており*6、やってくる就職案内を見ても面白そうな仕事のできる企業が殆ど見当たらなかったというのもありました。これなら企業に行くよりは、大学に残って研究者を目指してみようと思った、というのも大きいです。


とはいえ、いざ研究者を目指して研究テーマを選ぶとなると意外と迷うもの。そんな時に出会ったのが、旧・工技院(現・産総研)の機械研に夏季研修で行った際に体験させてもらった自動運転技術の研究。この話を細かく書くだけでブログ記事がひとつ書けてしまうくらいの内容*7なので割愛しますが、その際に当時の主任研究官の方から言われたのが「この自動車は免許取り立ての君より上手に車庫入れもするし高速道路も走れるが、脇道からの子供などの飛び出しには弱いんだ。本当はヒトがそうであるように、事前に注意を向けて警戒していれば避けられるのだけど」というコメントでした。


卒論のテーマを決める際に思い出したのがそのコメントで、「だったらヒトの脳がどのように注意をコントロールしているかが分かれば自動運転車両に『注意』のメカニズムを実装して飛び出し事故を防げるようになるかもしれない」と考え、以後研究者を辞めるまで一貫してずっとヒト認知神経科学の研究業界に身を置き、「ヒト脳における視覚的注意のメカニズム」をテーマとして研究し続けていました。


ただ、これはWaymo以下多くの自動運転プロジェクトが目覚ましい進化を遂げている現在から見ると、非常に牧歌的な話だったなとしか思えません。結局計算速度の向上と機械学習の進歩とセンサリング技術の進歩で、その辺の問題は解決してしまっているように見えます。早晩無用になる研究テーマだったと言われれば、その通りです。

正直言って無能だったが、勉強だけは熱心なポスドクだった


そんなわけで博士課程に進み、さらにはポスドクとして研究者の道を歩み始めたわけですが、実際には予想以上に困難が多くて大いに戸惑ったのでした。


ひとつは、僕が一貫して興味を持っていた「前頭葉における視覚的注意の脳内表現」に詳しい研究者が日本国内には殆どいなかったこと。極めて専門的な話題になりますが、いわゆる「視覚的注意」の脳内機構の研究というと日本はおろか世界的に見ても視覚野に対して「注意」が働きかけた結果としての視覚野の脳活動の変化について調べる研究が今でもメインです。それ以外となるとようやく頭頂葉の関連脳部位の活動が研究されているぐらいで、前頭葉となればもはや世界的に見てもエキセントリックなテーマで国内では「異端」扱いされる有様でした*8。しかし、上記の自動車運転の衝突回避のように「運動準備を伴った注意」となると、運動制御を司る前頭葉の機能を調べないわけにはいきません*9。故に、指導者を探すことも難しければ同好の士を探すことすら難しいという状況がずっと続きました。


結果的に、自分で手掛けた研究の多くは実験デザイン策定から実験の実施*10からデータ分析から論文執筆から査読者との応酬に至るまでほぼ独力でやらざるを得ず*11、それなりに大変な思いをすることも多々ありました。


もうひとつは、綺麗なデータに恵まれなかったこと。世の中の有名論文誌に載る研究の多くが綺麗で分かりやすく、統計分析した結果のp値も非常に低いデータばかりなのに対して、僕が手掛けた研究ではそんな綺麗なデータにはついぞ出会えませんでした。


これは当事者としては結構な地獄で、どんなにヒト脳機能画像実験をやってもとにかく綺麗なデータが出ない。たまに綺麗なデータが出ても、10人測ってみてようやく1人とか2人とかそれくらいで、それ以外はもう見るからにノイズの塊みたいなことの方が多かったことを覚えています*12。周囲からは「もっと沢山実験すればいいよ」と励まされたりもしたものですが、それでもノイズみたいなデータしか出ない被験者が5人とか連続すればモチベーションも下がるというもの。「自分には研究者としての才能がないんだろうなぁ」と幾度も意気消沈したものです。


当たり前ですが、汚いデータのまま論文を書いて投稿すれば、例えばですが「こんな未熟者が書いた論文を読ませられるなんて時間の無駄だ」*13みたいなクソミソな内容のレビューワーコメントとともにリジェクトされるわけで、自然と綺麗なデータがそれなりに貯まるまでは論文を書きたがらないようになってしまいました。今にして思えば、「論文の数が物を言う」研究業界で生きていく上ではこれは良くない傾向だったのでしょう。一方で、研究テーマの選び方にだけは野心的だったせいで、例えば「ずっと無難で面白くないが確実に論文になる」テーマを好まなかったというのもあり、ますます論文をあまり書かないダメなポスドクになっていきました。


と、そういう問題意識がそれこそ大学院時代からあったので、もっと勉強をしなければ、もっと最新の論文を読み込まなければ、それでもっと綺麗なデータを取るための実験デザインや測定方法が分かるかもしれない、と思って2006年に始めたのが旧ブログでした*14。普段は最新の論文のアブストラクトだけ読んで寸評を書き、時々気になった論文を1本取り上げてガッツリ読み込んでレビューする、というもの。元々修士の頃も自ら率先してKandel原典*15の輪読会とかやってましたし、以後も必要に応じて自分で論文読み会など主催するくらいだったので、論文を読んでまとめるのは朝メシ前でした。ただし、当時はまだ実名でネット上で活動するなんて正気の沙汰ではないと言われる時代だったので、ハンドルネームでブログを書いていました。


これは今でこそ巷で良く見られる学術系ブログのスタイルですが、当時は珍しかったせいか同じ分野の研究者や大学院生たちの間でだいぶ話題になったようです。たちまち人気になり、方々の学会や国際会議に行くと必ずそこで初めて出会った人たちから匿名だったにもかかわらず「ブログ読んでます!」と言われるようになりました。


ところで若干話が逸れますが、研究者を辞める直前に僕が熱心に研究していたのが「前頭葉における視覚的注意に関連した空間座標情報のコーディング」というテーマでした。マカクザルによる先行研究を見る限りではどうやら大脳皮質上にその情報が表現されていそうな気がするし、ヒトfMRIによる先行研究からはおそらくヒト脳でもその様子を測定することは出来そうだと思われました。ということで理研で5年目の時に獲得した科研費若手Bを使って後者の先行研究を下敷きにして発展させたヒトfMRI実験をしばらく行なっていたのですが、どんなに頑張っても視覚野(後頭葉)の脳活動は再現できた一方で頭頂葉前頭葉の脳活動は再現できず*16、しばらく手詰まりになっていました。当時の僕は上記のように「自分の実験デザインが悪いか、被験者が足りないか、被験者への指示内容が悪いか、いずれにせよ自分が実験が下手なせいなのかな」と困惑していたものです。


ちなみにこれまた余談ですが、毎年のようにノーベル賞候補者としてお名前が上がる小川誠二先生が当時主宰されていた小川脳機能研究所(2001-08)に研修生&共同研究者としてお世話になっていたのも、博士課程からポスドク時代の前半にかけてのことでした。お恥ずかしい話ですが、当時親しかったベテラン研究者の先生から「小川先生からお孫さんのように可愛がられていると聞きましたよ」と言われたのは懐かしい思い出です。

ポスドク待遇改善運動、研究体制改革運動を経て、業界では知らぬ者のないお尋ね者になった


その人気を博した旧ブログですが、論文レビューとは別に人気のテーマがありました。それが「ポスドク問題」と、日本の研究体制に関する問題提起です。まず、そもそも当時の僕自身がポスドクの身で、先の見えない任期付き雇用の身分で将来への不安に苛まれる立場にあったということ。加えて、実際に周囲でポスドク残酷物語を見聞きすることがあったこと。もうひとつには、ある意味国の予算が潤沢に流れ込む現場にいて、市井の感覚ではちょっと信じられないような予算の使われ方を目撃することが往々にしてあったこと。そして、僕自身が理不尽なことには黙っていられず、曲がったことが嫌いな性格だったということ。そういった事情のもと、旧ブログは論文レビューと同じくらいそれらの問題についての分析や提言にスペースを割くようになりました。


ポスドク問題で言えば、今でも思い出すのが理研BSIのある同僚の顛末。正確には一次ソースではなく1-hop挟んだ伝聞なので厳密には違う話を含んでいるかもしれませんが、概ねこういう話でした。

そのポスドクは、神経科学(脳科学)分野でいわゆる業界標準の論文誌に立て続けに何本も論文を載せていて、誰からもテニュア(終身雇用の助教以上の大学教員のポジション)に就けることは間違いないと目されるくらい優秀な人だった。そして理研で任期切れ間近の頃にあるテニュア助教の公募に応募して、首尾よく審査を通過して内定を得ることが出来た。ところが、内定後の面談で採用主である教授に「給料はお幾らほどでしょうか?」と聞いたところ、教授から「お前は金のために研究するのか!そんな奴はこちらから願い下げだ!」と怒鳴られ、内定を取り消されてしまった。任期切れ間近の土壇場で次の就職先を失ったそのポスドクは、家族を養うために研究者としてのキャリアを断念し、たまたま募集が出ていた特許事務所の事務員として就職する羽目になった*17

これは最も極端な例ですが、他にも悲惨な境遇に喘ぐポスドクは身近に沢山いました。加えて、そんなポスドクたちの姿を見て「ああはなりたくないから」と博士課程に進学しないと決めたという、共同研究先の学部や修士の学生たちの声を聞くことも幾度となくありました。自分もいずれ我が身と思えば、ポスドク問題を旧ブログで取り上げないわけにはいかない、と思ったものです。


もうひとつの「信じられないような予算の使われ方」の話ですが。独立行政法人(独法)の研究所や国立大学法人(国立大)の運営費交付金そして科研費などの国からの補助金は、全て「単年度会計」が大原則です。理由は明快で、日本国憲法第86条で定められるように毎年国家予算として計上されて国会で承認されない限りは使えないお金だからです。そうすると「年度末になると道路補修の予算消化のためにそこら中の道路が掘っ繰り返される」のと同じノリで、年度末予算消化のために余ったお金で色々なものを買ってしまうんですね。ただ、その規模がえげつない。


既に解散した組織の話なので有り体に書いてしまうと、僕が実際に見聞したケースでは「年度末に5000万円の予算が余っていたから」という理由で1台2000万円の実験機器を2台買い、しかもその後誰にも使われる当てがなく数年間埃をかぶって放置されっぱなしだった、ということがありました*18。他にも、予算が余っているからという理由で使いもしない大型ワークステーションを大量に購入して、全て放置というケースも見たことがあります。その金でどれほどの数のポスドクや非正規雇用の研究者たちの雇用を守れたかと思うと、言葉もありません*19


他にも、日本でも有数の公的研究所にいたこともあって、いわゆる「きな臭い話」もだいぶ聞かされました。「巨額の研究資金の公募にもかかわらず募集時点で内定者が決まっていて後から集められたのは皆体裁を整えるためだけのただの当て馬だった」*20みたいな話は朝メシ前で、ロクでもない話を挙げたらキリがありませんが、いずれにせよ人材と予算とリソースの無駄遣いになったという話は本当に枚挙に遑がなかったという記憶があります。


一方、主にテニュアに就いた人たちの間で良く話題になっていたのが「校務や研究資金関連業務などいわゆる『雑務』の負担が大き過ぎる」「しかもそれらの雑務の中にはあまりにも非本質的でくだらないことが多過ぎる」という件。例えば科研費に応募したことのある方なら分かるかと思いますが、申請書を書くとなると自由のきかないWordファイルにぴちっと罫線を引いて色々区切らなければならない上に、文科省というか学振からの通達には「1mmたりともずれていたらその罫線がずれていた申請書を出した機関からの全ての申請書の受け取りを拒否する」みたいなことが書いてあったので、それはそれは皆神経質に罫線の位置を合わせていたものです。ただでさえ提出する書類のボリュームが多い上に、そんなくだらないこと*21までしていたら時間なんて幾らあっても足りません。


自然と、旧ブログでは「いかにポスドクたちの置かれている状況が理不尽で、これを解決することでどれほど日本の若手研究者と日本の科学研究の未来が明るくなるか」「いかにして無駄なお金の使われ方やリソースの浪費を排し、真に科学研究にとって必要なところに使われるようにするべきか」という話題も取り上げるようになりました。細かいところで言うと、上記の「科研費Wordファイルの罫線問題」に対して「こうやれば確実に規定からずれない罫線を引ける」というノウハウ記事を書いたことすらあります(笑)。これらは時に自分と同世代くらいの若手研究者、特にポスドクたちからは喝采を浴びることもありましたが、他方で予算を差配するような立場にあったシニア層の研究者たちからは白眼視されることも多かったと聞いています。


他にも「根拠のないエセ脳科学」を批判する記事も割と人気を博していたように記憶しています。これはもう単純で、マスコミで喧伝されるものも含めてあることないことを吹聴してまともな根拠のない「〇〇すべき」「××してはいけない」と吹聴する通俗的な「脳科学」と称する代物を、専門的な考察と反証となる先行研究の引用などでぶった切るというコンテンツでした。これも注目を集めましたが、一方で批判された当事者からの挑発的なコメントが殺到したりしてなかなか面白い有様だったのを思い出します*22


ただ、旧ブログ全体としては批評というか批判的なトーンの記事が多かったこともあり、全体の論調としてはかなり悲観的だったと思います。「このまま不合理な仕組みを放置し続ければ日本の科学研究は斜陽になる」「日本の研究体制は後継者難で傾いていく」というような警鐘を鳴らす記事をよく書いていたもので、相応にはてブのブクマも取れていたように記憶しています。


そんな最中に起きたのが2009年の政権交代と、その時の民主党政権による「事業仕分け」。これは世間から見れば仕分ける側も仕分けられる側もただのパフォーマンスとしか映らなかったかもしれませんが、研究業界から見るとパフォーマンス以上の余波の多い災難でした。例えば科研費の若手Sが突然廃止されたり*23、突然次年度予算が人件費ごと打ち切られて次年度から路頭に迷うポスドクが現れたりと、割と直接的に影響を受けることが多かった印象があります。


ところで、当時「神経科学者SNS」という脳の研究者向けのmixiのようなサイトがありました*24。記憶にある範囲では確か2006年から存在していて、折に触れ色々な議論が沸き起こっていたように記憶していますが、この事業仕分けという災厄に対しては殊に議論が白熱して盛り上がったものでした。その時、若手中堅を中心に出てきたのが「そこまで言うなら民主党政権に先んじてこちらで無駄を削れるぞとアピールしてみたらどうだろう」「これを機に色々改革して合理化してみれば良いのでは」という声。自然とその話題について議論するコミュニティが立ち上がり、毎日毎晩のように議論を繰り広げたものです。僕もコアメンバーの一人として、合意内容の取りまとめや文書への書き起こしなどをお手伝いしました。


そしてその帰結として、事業仕分けという一種の「無駄を削って国に貢献しろ」という政治的圧力に対して、「研究者の側でもこれだけの無駄を削ることは出来るのだから、我々の話を聞いてくれ」という趣旨で神経科学者SNSの若手一同という名義で発表したのが「これからの科学・技術研究についての提言」でした。ただしこの提言を出す際には実名を出すメンバー・出さないメンバーとで事前に調整しており、僕は実名を出さないメンバー扱いとなっています。そして記憶が間違っていなければこれはプレスリリースまで出して、一部報道ではちょっとした記事として取り上げてもらったはずです。ググれば分かりますが、総合科学技術会議にも議題として上げられています。


しかし、この提言は同時に大きな波紋を呼んだ上に大いに物議を醸しました。まず、この運動に参加しなかった他の研究者たちの相当な割合から不快感の表明を受けたこと。特に学生が主体の「〜若手の会」からはわざわざ「我々若手の会はこの提言とは無関係です」という声明が出されたほどで、いかにこの運動が過激で危険なものと思われたかを物語っています。


また総合科学技術会議日本学術会議でもこの提言は陰に陽に話題にされたそうですが、総じて反応は不評だったようです。「予算獲得競争の場では『これ以上の金は要らない』などと自分から言うのは自ら負けを認めるようなものだ、そんな提言を公の場に出すとは不届き千万」という声が多数で、中には「こんな若手の何も分かっていない跳ねっ返りどもには厳しく対応するべきだ」「綺麗事ばかり言っているがどうせ奴らは他人の利益を削って自分たちの利益を強化したいだけ、そんな連中の意見に耳を貸す必要はない」*25という意見も出たと聞いています。


挙げ句の果てにこんなこともありました。この提言について旧ブログで取り上げたところ、数日してから突然携帯に知り合いの研究者から電話がかかってきて、何事かと思ったら「旧ブログに書かれた内容は誤解を招くから書き換えろ」とのこと。それはどこの誰からの要求なんですか?と聞いたら「日本学術会議からだ」と。何と当時の日本学術会議の議長から、人伝てながらも名指しで僕に対して旧ブログの内容が不適切だから書き換えろというクレームが直接やってきたのでした。


一方で、この提言に対して何と文科省の若手官僚の人たちから「同じ問題意識を持つ同志として一緒に何かやらないか」と声をかけていただき、その後何度か実際に集まって意見交換を行い*26、行政レベルでも出来る「研究体制改革」はないかと共に知恵をしぼるようになりました。そして、その文科官僚の人たちや上記の「提言」のコアメンバーたちと検討と議論を重ねて、ついに実現したことの一つが「基金化による科研費の年度またぎ繰り越し」でした。これは科研費基金化することで必ずしも年度末に予算を使い切らなくても良いようにしたものです。それはイコール「年度末予算消化」という悪しき慣習を打破する第一歩でもありました。


しかし、これらの活動によって僕は「表向きは匿名で」旧ブログやTwitterをやっていたものの、「名前を出してはいけないあの人」として事実上のお尋ね者として業界内では実名で名指しされるようになってしまいました。これは後年になって知ったことですが、理研BSI当時のボスのところには方々のお偉いさんから「あいつの政治活動をやめさせろ」「あんな過激なことばかり放言する奴はクビにしろ」などの苦情や要求が割と頻繁に舞い込んできていたそうです。ただ、彼女はマネージャーという意味では大変立派な人で*27、「言論の自由と学問の自由は守られるべき」と言ってそれらの要求は全て撥ね付けていたと聞きました。おかげさまで理研BSIでは5年任期を満了できたわけで、今でも彼女には足を向けて寝られません*28


ちなみにこれまた後年になって知ったことですが、上記の旧ブログによる「エセ脳科学」批判も当時の一部のお偉いさんの間では「せっかく予算を分捕るためにああいう通俗脳科学を泳がせている*29のに、あんな馬鹿なポスドクが真剣に批判しているせいで予算獲得の障害になっている」と糾弾の対象になっていたそうです。噂では同様の「予算を分捕るために世間一般に注目を集めるテーマを煽って文科省に焚き付ける」という手法がそういった当時の一部のお偉いさんの間で流行っていたそうで*30、図らずも旧ブログはその邪魔になっていた模様です。


そういった「上」からの圧力によって僕が不利益を被ることがあったかどうかというと、正直なところ分かりません。ただ、2009年の暮れにかねてから親しかった東大の先生と相談して、理研BSIの任期満了後にその先生に雇ってもらう目的である大型プロジェクトに応募したら、その先生が出した他の予算費目は全て承認されたにもかかわらず、僕の人件費に使われると明記された予算費目だけが「ゼロ回答」即ち一銭も認められないという結果になったことがあります。もっとも同じ頃に応募していた2010年の科研費若手Bは採択されたので、正直何とも言えない気もします。

そしてポスドクをクビになり、国内に行き先がなくなった


以上のような背景がある中で、2011年秋頃に所属していた当時のラボのボスはかなり以前から僕のことを政治活動にばかりかまける危険分子だと、苦々しい思いで見ていたようです。憶測するに、理研BSI時代のボスと同様に方々から苦情が舞い込んできていたのかもしれません。しかもこの当時のラボのボスというのが真面目と優等生ぶりで通っている人だったので、尚更そんな話が許せなかったのでしょう。そこに、ちょっとした些細な舌禍*31をネット上で起こしたのがきっかけとなって、最終的に爆発したのが冒頭の「お前はクビだ」発言だったと推測しています。


ただ、いい歳の社会人(企業人)になってから振り返ってみると、当時のボスがやったことは極めて真っ当だったんですね。ラボ雇いのポスドクのくせにラボの方針通りの研究はやらないし、自分で持ち込んできた科研費を使って自身の研究テーマのことばかりやっているし、しょっちゅうテニスで席を空けるし、そもそも目の不具合でラボの研究テーマの被験者も務まらないし*32、挙げ句の果てにfMRIの使い方に関しても意見が合わない。それなのに、さらに余計な政治活動ばかりにかまけてトラブルばかり持ち込む。そんな部下を3年も置いておく理由がそもそもボスの側にはなかったことでしょう。


言い換えると、たまたま彼が快く思っていなかった政治活動に関わるひとつの舌禍が僕をクビにするというトリガーになっただけで、おそらくですがあのラボにそのまま留まっていたとしても最長任期の満3年までいられることはなかったのではないかと思われます。また、僕は僕で彼のやり方*33に納得できなかったので、やはり任期満了することはなかったのではないかという気がします。


そういう経緯があるので、クビになった当時からしばらくは彼のことをだいぶ恨みに思っていたものですが、今となってはむしろ彼の当時の立場に賛同こそしないものの同情はする次第です。というか、今の僕が同じ立場になって当時の僕のような部下を持ったら、同じようにクビを飛ばしていると思います。少なくとも僕は彼が不当なことをしたとは今は思っていませんし、彼を責めるつもりもないです。


ともあれ、そうなった以上僕は年度末の3月31日で出ていかなければならなくなってしまったので、急遽次の行き先を探さなければなりません。ところが、これが大きな落とし穴だったのです。


というのも、2011年当時既にポスドク問題は非常に深刻さの度合いを増していて、助教や講師のような常勤ポジションどころか、単なるポスドク研究員の公募すらかなりの競争率に上るような有様で、とても準備期間4ヶ月ぐらい*34では次の4月からの職なんて決められないという状況になっていました。しかも僕の場合は日本ではあまりラボが多いとは言えない、ヒト脳を対象とした認知神経科学を研究テーマとしていて、そもそも応募できるポジション自体が少なかったのでした。


そしてそれに追い討ちをかけたのが、ほぼ同時期にネット上の各所で始まった旧ブログと僕の個人情報とを紐付けた中傷行為でした。何故分かったかというと、旧ブログのアクセス解析リファラ情報にそれらが出ていたからです。行くところに行くと「ネット上ではあれほどビッグマウスを叩いているくせに、業績はショボい無能」「まともに論文も出していないゴミクズのくせに偉そうに研究体制がどうだの語るな」というような中傷がズラリと並ぶような有様だったのを思い出します。残念ながら事実からそう遠くないツッコミなので言い返せることは何もないのですが、これはさすがにこたえました。


ところが、厄介なことに研究者という人々は初対面の同業者に出会うととにかく素性を詮索するのがお好きなようで、例えばある公募に僕が応募するとその公募を出したボスがネット上で僕の情報を調べたら悪評の中で揶揄されていた旧ブログにたどり着く、ということが何件かあったようです。その中には、事前に電話で話した段階では「君のようなスキルのある人には是非うちのラボに来て欲しい」と先方のボスから言われたにもかかわらず、途中で僕の旧ブログとその評判を見て気でも変わったのか、拝み倒して例のボスから推薦状を取っていざ面接に行ってみたら「所用があるので」と称してjob talkの場に同席することすら先方のボスから拒まれた、という事例が2-3件ありました*35。もっとも、上記のように業界では非常に有名なお尋ね者だったので、そうでなくとも僕の悪名高さを知っている誰かが注進に及んだケースもあったのでしょう。


もちろん、そもそも34歳という年齢にしては上記のように論文が少な過ぎたというずっと根本的な理由もあります。これは僕が無駄に研究内容の完成度にこだわり過ぎたり、ある意味絶望した結果としてモチベーションを下げていたせいなので完全に自業自得なのですが、一方で僕より論文が少なくても良いポジションに就いている同世代の人も珍しくなかったので、運に恵まれなかったり単に応募する件数が足りなかった(つまり努力不足)という側面もあるのだとは思います。いずれにせよ、論文が少ない無能ポスドクである時点でそもそも箸にも棒にもかからないという方が強かったはずです。それに余計な政治活動の悪評がダメを押したと言った方が良いでしょう。


気が付いたら、国内で3月までに応募できるポジション数十箇所全てに応募し尽くしたにもかかわらず、採用に至ったのはゼロ。「これはもう研究者としてのキャリアを続けられないんだ」と悟った時はさすがにショックでした。そして、当時はまだまだ博士やポスドクの企業による採用なんて例外中の例外のような扱いをされており、「博士ポスドクなんて社会に出たらお荷物の役立たず」と謗られた時代だったので、研究者の職以外ではとてもまともな職に就けるとは到底思えませんでした。それこそ日雇いのバイトか派遣社員としてこき使われる仕事ぐらいにしかありつけない、そういう雰囲気がありました*36。これらはまさしく「研究者をドロップアウトした無能の悲惨な末路」です。


いかな自業自得とはいえ、「これまでの10年間の積み重ねは一体何だったんだろう」「せっかく研究者の皆に良かれと思って取り組んできたことが自分に仇をなすなんて」「積み重ねてきたものを全て失って、食うためだけにまるで違う良く分からない仕事をして生きていくことなんかに価値はあるんだろうか」「父子二代の夢もこれでおしまいか」そんなことを毎日思っていた記憶があります。通勤のために駅のホームに立っていたら、入線してくる電車を見て「いっそこの電車に飛び込んで死んでしまえば楽になれるかな」と思ったことも何度あったことか。嫁さんが後に曰くは「あなたは毎日この世の終わりみたいな顔をしていて、いつか棺桶に入って家に帰ってくるんじゃないかと思っていた」。


けれども、結局そんなことはしませんでした。何と言っても、嫁さん一人を後に残すなんてことは僕にはこれ以上になく耐え難いことだったからです。そして社会に出て企業を沢山当たれば何かしら仕事はあるだろう。それこそ良く分からない日雇いの仕事をする身になったとしても、泥水をすするような毎日になったとしても、自業自得なのだから全てを諦めて、格好悪くても後ろ指を差されてもとにかく生きていこう。そう思い直したのを覚えています。

土壇場でシンガポールでのjob talkに招かれたが、結果的に研究者としてのキャリアを断念した


なのですが、いきなり4月から無職では家計が大変です。そこで山のように出した公募の中で、唯一審査を通過したところに半年の期限付きで特任助教の肩書きつきでお世話になることにしました。それが某所のポスドク向け企業インターンシップ支援プログラムです。これは後で途方もない問題を引き起こしますが、その話は後述します。この時は僕自身がツテを頼って首都圏のある有名大企業の中央研究所にインターンとして受け入れてもらい、そこで本当に僅かながら研究開発のお手伝いをさせてもらっていました。


そして、実際には3月からの話ですが企業就活も進めていました。詳しくは後でリンクを貼る過去記事をご覧いただきたいのですが、博士ポスドクの企業就活に強いと当時から評判だったアカリクさんを頼っています。そこで担当のTさんという方と話してびっくりしたのが、まず想像よりも博士やポスドクを採用している企業が実在するのだということ。上記のように「博士ポスドクドロップアウトしたら日雇いバイトか零細の派遣の仕事ぐらいしかない」とそれまでは聞かされていたので、極めて意外に思ったものです。その後実際に応募できそうな企業を絞り込み、4月の時点でいくつか企業の面接にも臨んでいました。残念ながら4月中に受けたところは全て不採用だったのですが、その時に想定年収として提示された金額を見て驚愕したのをよく覚えています。ポスドクの給料って激安だったんだな、と。


ところが、そんな最中に何気なく国際公募を眺めていたらふと目についたポジションがありました。それはシンガポールDuke-NUS Graduate School of Medicine(現在はDuke-NUS Medical School)という米Duke大とシンガポール国立大(NUS)との合弁大学院における、ヒト認知神経科学を研究テーマとする任期5年のポスドク職。仮にここに採用されたら研究者としてのキャリアも再び続けられるし、そこで5年間一生懸命頑張ればある程度良い論文も書き貯められて、少しは未来の展望が開けるかもしれない。そう思い、かねてより懇意にさせていただいていた米アイビーリーグの大学に勤める日本人の先生に依頼して推薦状を書いてもらって応募したところ、先方のボスから「詳しい話が聞きたいのでぜひシンガポールまでjob talkしに来て欲しい、フライト代とホテル代はこちらで持つ」という返事がやってきてびっくり。


とるものもとりあえず、一縷の望みをかけてANAチャンギ行きフライトに乗ってシンガポールへ。翌日から2泊3日の日程でDuke-NUSの高層ビル校舎の中にある会議室で一連のjob talkに臨みました。余談ですが、この時滞在していたのがDuke-NUSのすぐ近所のTiong-Bahru界隈です。

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僕にとってはそれは乾坤一擲の大勝負のつもりでしたが、結論から言うと評価は芳しくなかったようです。理由は割とシンプルで「英語でのコミュニケーションに難があったこと」。ただ、正直なところシングリッシュを話す先方のボスや学生たちと議論をするのは非常にキツかったです。実は2011年の2月にもUSシアトルのワシントン州立大学を訪れてポスドクとして雇ってもらえないかということでjob talkしてきたことがあるんですが*37、英語ネイティヴたちに囲まれたその時ですら面と向かって英語がダメとは言われなかったので、これはもうどうしようもなかった気がします*38


それでも先方のボスは僕のスキルを見込んでこんな研究テーマはどうか?と提案してくれたんですが、これが鬼門中の鬼門でした。それは「脳波fMRI同時測定実験」。超高磁場のMRIの中で微細な電流を測る脳波計を使うという実験で、面白いデータが取れそうに見えますが実際には測定した脳波データの99%以上が超高磁場由来の強烈な電流ノイズに埋もれて何も見えない*39のが当たり前という、脳機能画像実験の中で考えられる地獄の全てを突っ込んだような代物です。おまけに比較的ノイズの少ない安静時測定ではなく、非常にノイズの多い課題遂行時測定*40という条件付き。そして何よりも、僕は理研BSI時代に5年間かけてその課題遂行時の脳波fMRI同時測定実験に取り組んだものの、あまりにも汚な過ぎるノイズまみれのデータとの格闘に時間を潰し過ぎて結局1本しか論文が書けなかったのでした*41


言い換えると、5年かけても1本しか論文が書けないテーマを引き受けるなら、5年任期で採用してやるという話だったわけです。この時僕は35歳間近、仮にその後5年任期を満了したら40歳間近。40歳間近で、また1本しか論文が増えなかったら、今度こそ人生もキャリアも詰んでしまいます。そしてその年齢から人生もキャリアもやり直すには遅過ぎます。おまけに、嫁さんが東京で仕事に就いている以上シンガポールへの単身赴任以外の選択肢がありません。どこからどう見ても、何も良いことのない選択肢でした。この時点で僕は覚悟を決めました。「やっぱりこれ以上研究者としてのキャリアを続けるのはもう無理だ、諦めよう」と。その先方のボスからの提案を断り、交渉は決裂したのでした。


その夜、僕はシンガポールでも屈指の観光名所であるラッフルズ・ホテルに立ち寄り、ひとしきり観光して回った後でこれまたシンガポール・スリング発祥の地として名高いLong Barに入ることにしました。

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ついに全てが終わったんだな、と思いながらグラスを傾けていたように覚えています。今でもはっきりと思い出せますが、普段は殆ど愛想を見せないバーテンさんが僕の席の前にやってきて「シンガポールは楽しいことが沢山ある街なのよ、明日やることがないならこれを参考にしてね」と山ほど催し物やグルメ案内などのパンフレットを渡してくれたのでした。おそらくですが、その時の僕はよほど暗く思い詰めた表情をしていたのでしょう。


企業で働くとなれば、全くの畑違いの分野で取った博士号ももはや無用の長物だし、産業応用の可能性がゼロに等しいこれまでの11年間の研究内容もそのノウハウもやはり無用の長物です。無能ながらも博士号を取得し、ボンクラながらも研究者としてキャリアを積んできたことにはある種の誇りも持っていましたが、それもきっと企業で働く際には足枷になるだろうと思い、それも封印してこの地に置いていこうと思ったのでした。自分が憧れてきた研究者への道を閉ざすことになった、このシンガポールの地の土は二度と踏むまいと心に誓いながら。


その翌日の夜遅く、僕は成田行きのANAの夜行便で帰国しました。帰りの便に乗る前にチャンギ空港のロビーでラップトップを広げて、Duke-NUSのラボに僕を推薦してくれた例の先生に、感謝の念と研究者を辞める決断をしたと伝えるメールを書いたのを覚えています。


帰国してからは一部の親しい先生たちに研究者を辞めることにしたと伝えましたが、そのうち何人かから「君のこれまでの経緯はよく知っているが、それでも君ほどの才能がこの業界を去るのは惜しい。うちでポスドクとして働かないか?」という誘いをいただけたのは有難いことでした。ただ、当時既に35歳になろうとしていた僕にとって、その時点から改めて(例えば)科研費雇いのポスドクを続けるというのは、単に問題を先送りするようなものでしかなかったため、全てご厚意に感謝した上で丁重にお断りしました。

研究者人生に別れを告げ、企業へと転職した


その後の経緯は以前のブログ記事でも書いた通りです。

正直言って、こんな海のものとも山のものとも分からない、全くの畑違いの分野で博士号を取得してポスドクまで6年間もやってきた挙句、プログラミングすらもMatlabとC以外ほぼ何も書いたことがなく、多少マニアックな統計分析*42が出来るに過ぎない35歳間近のおっさんなんて、一体どこの企業が雇ってくれるんだろうかと当時は思ったものです。


実際、アカリクさんを経由して受けた最初の3社からは一次面接の時点で断られましたし、その理由も「新卒博士ならまだしもポスドクとなると採用した前例がないので採用できない」「いかな東大卒でどれほどスキルがあったとしても企業勤務経験が皆無の30代半ばの人間なんて採れない」など散々なものでした。ちなみにキャリア採用ページなどを通じて直接応募してみた日系大企業数社は全くもって梨のつぶて、応募を受け取ったとかそういう反応すら皆無でした*43。アカリクさんを経由して問い合わせてみたら「そもそも中途採用自体行なっていない、新卒以外は採用していない」という日系大企業も多かったと記憶しています*44


という惨憺たる有様だったので、最終的に3社からオファーをいただけたのは意外であったと同時に本当に光栄でした。その中で選んだ1社が前々職です。これは当時のCTOのご厚意による部分が大きかったです。上記の記事でも書いたように「尾崎さんはデータサイエンティストってことでいいよね」*45ということで、僕に「データサイエンティスト」という肩書きを与えてくださったのもまさにそのお方です。当時のCTOとアカリクで担当してくださったTさんがいらっしゃらなければ今のデータサイエンティストとしての僕はなかったわけで、お二方は正真正銘の人生の恩人です。このご恩は死ぬまで忘れることはないでしょう。


企業で働くことになってから、ひとつ自分の中で決めたルールがあります。それは「所属する組織がどれほど腐敗していて理不尽で不合理で正視に耐えられなかったり不満を言わずにおれないものであったとしても、それらが自分に直接害をなさなければ傍観せよ。仮にそれらが自分に直接害をなすことがあったら、組織を変えたり正したりしようとするのではなく、とにかく真っ先に誰にも一言も言わずに一目散にその組織から逃げろ」ということ。これは言うまでもなく、自分が研究者の世界にいられなくなった苦い経験を踏まえた教訓です。何があろうともどう思おうとも「三十六計逃げるに如かず」。この教訓は企業に移った後も実は何度も生かされています。


あとは、いかに自他ともに認める無能でボンクラなポスドクだったといえども、それでも「あいつは無能だったから研究者をドロップアウトして企業に流れたんだ」と陰口を叩かれるのは事実であっても悔しかったので、企業では少しでも良い仕事を目に見える形でやっていきたい、出来れば少しでも他人様により良いところだと認められる企業で働きたい、と思っていました。そういう思いがあればこそ、キャリアアップに積極的になったという側面もあります。


ところで。前々職に入社を決めた頃と実際に入社して働き始めた頃に、ある人から誘いのメールが届いたのでした。それはMaurizio Corbettaという、イタリア出身で当時セントルイスワシントン大学(WUSTL)でヒトの視覚的注意の脳機構を研究していた大御所の先生です。実はその直前の1月にダメ元で世界中の有名な研究者にポスドクとして受け入れてもらえないかというメールを出しまくっていたんですが、彼はその中でも僕が修士課程の頃から最も憧れ続けていた先生です。その彼から直々に「君の研究は非常に面白い、ぜひうちのラボでポスドクをやってみないか。既に人件費の確保もインタビューの調整もしてある」というメールが2回も来て、興奮しないわけがありません。が、僕はその時点で既に研究者を辞めた後だったので、2回とも丁重に非礼を詫びた上で辞退したのでした。僕にとっては、これが研究者として最後に浴した栄誉でした。

最後にやってきた、非常に面倒なこと


そうそう、研究者として最後に所属していたポスドク向けインターンシッププログラムですが。これが途方もない曲者で、「企業に博士ポスドクを就職させる」ことを目的としていたにもかかわらず「インターンシップを完了させる」ことが実はKPIとなっていたプログラムで、言い方を変えると「就職の支援は何もしてくれないし、むしろインターンシップ数の達成に寄与しないので博士ポスドクインターン期間中の企業就職は歓迎しない」という代物でした。


よって、例えば「インターン受け入れ先企業が仮にインターンを気に入った場合でもその企業の直接採用は許さない」とか「途中でインターンシップを打ち切った場合(インターン受け入れ先企業が気に入って直接雇用に切り替えた場合でも)は給与は返済せよ」という規定があったようです。中でも後者の「途中離脱時の給与返済」は僕がプログラムに参加して以降に文科省の指示で追加された規定だったらしく、僕はそのことをプログラム事務局からは知らされていませんでした。


過去に何度か色々なところで話題に出しているキャリアコンサルタントの件も、このプログラムにおける話です。彼はそのプログラム専属のMBA持ちのコンサルタントだったんですが、最初に面談した時の問答が以下のようなものでした。

キャリアコンサルタント「東大で研究員をなさっていたとは、年収1000万円以上貰われていたんでしょう?」
僕「いやいや」
コ「ご謙遜を。800万円でしたか?」
僕「いやいや」
コ「600万?」
僕「いやいや」
コ「え?まさか400万?」
僕「それ以下です」
コ「」

最後の「」の時の彼の表情は今でもありありと思い出せます(笑)。その場で「いいですか、ポスドクという身分はですね」云々と彼に説教を始めたのは言うまでもありません。


それどころか、インターンシップを管理するメンターという人たちがいたんですが、これもとんでもない食わせ者でした。僕の担当メンターは誰もが知っている伝統的日系大企業のOBという名刺を出してきて経歴だけは立派な感じの爺さんだったんですが、インターン受け入れ先の決め方が「俺のコネで〇〇社に決めてやったからとっとと行ってこい」「遠隔地なので現地にアパートを借りるなら何割かまでは家賃補助を出すが、自宅から通うなら交通費は出ないぞ」みたいなめちゃくちゃな話で、呆れ果てたのを覚えています。それで上記のように僕が自分のツテで交通の便の良いところにインターン先を決めてきたら「俺の顔に泥を塗る気か」みたいなことを言い出してきて、実に面倒でした。


結局5月の連休明けに前々職からの内定を得て6月1日付での入社も承諾して契約書にサインしたんですが、そのことを報告したらそのメンターの爺さん曰くは「そんなどこの馬の骨とも分からないアイテー企業になんか行ってどうするのか、インターンを残り半年最後までやってこい、アイテー企業のオファーなんて待たせておけばいい*46」。そこで埒が明かないとみて直接プログラム事務局にインターンを途中で打ち切って就職しますと伝えたところ、後日伝達事項があるから来てくれと言われたので改めて事務局に出向くことに。


その事務局との面談の席で言われたことは「インターンの途中離脱は規定違反なので給与は返済してもらう」「支払い済みの4月分はまだインターンが始まっていなかった扱いなので規定違反にならないが*47、5月分は満額返済に該当するのでそもそも給与を支給しない」「だが4-5月分の社会保険料はまだ天引きしていない、よって5月分はその社会保険料を納付してもらう」つまり5月分の僕の月収はマイナス(=僕が逆に事務局に対して支払わなければならない)になったのでした。ただ、担当者氏曰くは「本当はポスドクの方が首尾よく企業に就職するということで大いにめでたい話であり気持ち良く送り出したいところだが、文科省の規定が不合理なのでこうなってしまって大変申し訳ない」ということで、平謝りしていたのを思い出します。ついでにその人から聞いたところでは、それらの博士ポスドク向けインターン支援事業で、実際に企業に就職できた博士ポスドクは極めて稀だとのことでした*48


なお余談ながら。この一連の顛末を例の文科省の若手官僚の方に洗いざらい報告したところ、後日彼から「博士ポスドク向けインターン支援事業の実施担当者たちを呼び出した際に彼らが『これだけ予算消化もインターン目標も達成しました』とばかり報告してきたので、尾崎さんのことを思い出して『おたくらの本来の目的は博士ポスドクを企業に就職させることでしょう?何で博士ポスドクの企業就職数を報告しないんですか?本来の目的を考えたらそちらを数値目標にするべきでしょう?』と詰めたら全員真っ青になって固まってましたよ」という面白い話を教えてもらえました。


余談ついでにもうひとつ。研究者の世界は基本的に任期満了だろうがクビだろうが何だろうが、何故か必ず退職願を書かなければいけないんですね。おそらく「職場都合退職」扱いにされるのが嫌だからということなんでしょうが、5年任期満了で辞めた理研BSIも、雇い止めで1年で辞めた例のラボも、そして問題のインターンプログラムも、全て退職願を書かされました*49。なお書くと、前々職には入社する3日ぐらい前からエンジニア研修に参加させてもらっていたのですが、その際はアルバイト扱いで給料が出ていたんですね*50。で、正社員として入社する際にやはりアルバイトの身分からの切り替えという意味で退職願を書いたので、2012年の上半期だけで僕は3回も退職願を書いたのでした。

このブログを始め、データサイエンティストとして経験を積んでいった


現在のこのブログ(そしてTwitter)を始めたのは、研究者を辞めて前々職に勤め始めてから、9ヶ月ぐらい経ってからのことでした。理由としては、やはり第一次データサイエンティスト・ブームの前夜とも言うべき当時はブログによる情報発信やTwitter上での意見交換が流行っていて、自分もそういうことをすれば少しでも早くデータ分析業界の第一人者たちに仲間に入れてもらえるかな?と思ったというのがありました。また、ブログでデータ分析のスキルをアピールすれば転職の際に判断材料とされて有利になるという話も当時からあり、そこを当て込んだという下心もあったと思います(笑)。ただし、実はそれ以後の転職時の面接で相手方が僕のブログを読んでいたというケースはただの一度もないので、そういう目的ではこのブログは役には立たなかった模様です。


ブログ以下各種SNSでの情報発信を始めるにあたって、僕がポリシーとして決めたことがひとつあります。それは「何があろうとも今後はネット上では実名で情報発信する」ということです。言うまでもなく、旧ブログ&Twitterを匿名でやっていた結果として「匿名で過激なことを放言する卑怯者」呼ばわりされ、あまつさえネット上でその正体を暴かれた上にそのせいで実生活においてまで窮地に陥り、さらには「匿名でネットであることないこと吹聴して暴れるような人間は信用できない」と言われることが多々あったからです。実際、例のラボをクビになると決まった時に相談した人の中には、そういう趣旨の冷たい言葉を投げかけてきた人が少なからずいました*51。ある意味当然の話かもしれませんが、匿名で素性を隠して怪しげなことや過激なことをやっている人間のことを、いざという時に助けてくれたり庇ってくれたりするお人好しなんてこの世の中には殆どいないのです。


このブログを開設して以降のことは、もはや説明を要さないでしょう(笑)。まさしく、このブログをご覧いただければご理解いただけるかと思います。「炎上ラーニング」と称して、あやふやな理解のまま学術的・技術的な記事を書いては、ネット上の各所から雨あられと降ってくるマサカリをひとつひとつ受け止めて、自分の学術的・技術的理解を高めていくというスタイルで、未だにずっとやっています*52


ここまでお読みいただいた方なら想像がつくかと思いますが、僕にとっては本当にデータ分析そして統計学機械学習といった分野は「35歳の手習い」という有様でした。計数の学生だった頃はまだSVMすら普及しておらず、それらの学術や技術がコンピュータの進歩とともに大きな進化を遂げた時期にはヒト脳の研究にかまけていて全くキャッチアップしていなかったためです。過去にとあるメディアの取材でも答えたように、研究者時代から「大急ぎで新しい分野について勉強してその知識をもとに即座に研究を始めて論文に仕上げる」のは苦にしなかったので、それらをほぼ詰め込みに近い形で猛スピードで勉強すること自体はあまり苦になりませんでした。それでもこれまで11年間かけて築いてきたキャリアもスキルも微塵も役に立たず、文字通り正真正銘のゼロから学び直す羽目になったので*53、難易度という意味ではそれはそれは大変でした。というか、正直なところ今でも十分過ぎるくらい大変です。


プログラミングに関しても、MatlabとCぐらいしかまともに書いたことがなかった35歳のおっさんにとっては学生時代に触ったことのあるRはまだしも、JavaPythonは文字通り未知の世界でした。SubversionやGitと言ったバージョン管理システムポスドク時代には見たことも聞いたこともなく、SQLとなるともはや異世界のものと映ったものです。これもまた、技術研修や現場でのOJTを通じて必死に覚えていくことになったのでした。不慣れなエンジニア仕事で足を引っ張ることも多かったにもかかわらず、見放すことなく指導してくださった当時の先輩同僚の皆さんには本当に感謝しています。


前々職時代はとにかく猛烈な勢いで統計学機械学習について学んでいたのを思い出します。当時頑張って取り組んでいたのが以下の3冊です。

Rによるデータサイエンス データ解析の基礎から最新手法まで

Rによるデータサイエンス データ解析の基礎から最新手法まで

わかりやすいパターン認識

わかりやすいパターン認識

サポートベクターマシン入門

サポートベクターマシン入門

金先生の本は今は新版が出ていますが、今でも時々読み返すことのあるバイブルです。「わかパタ」は今となってはかなり陳腐化の著しい内容の古い本ですが、それでもNNの基礎はこれでスクラッチから書きながら学びました。そしてChristinini本はスクラッチから書いて実装するというのをやっていましたが、Sequential Minimal Optimizationのところは何日間かけて書いても全然バグが取れず、最後は夢に本の中の数式と擬似コードが出てきてうなされたなんてことすらありました*54。それ以外にも東大出版会の赤本・青本を読み返し、その基礎としての線形代数も学部時代の教科書を引っ張り出して復習していました。まさに学び直しどころか「35歳からの手習い」です。


意外に思われるかもしれませんが、僕は前々職で「データサイエンティスト」という肩書きをたまたま当時のCTOから与えられただけで、正直に言うと最初の頃はデータ分析や統計学機械学習について一生懸命学ぼうという気概はそれほどなかったのでした。けれども仕事を続けるうちに、言い方は悪いですが「他に売りになるようなものもなければ他のピュアなエンジニアの仕事で食っていけるとは思えなかった」こともあって、少ししてからかなり必死になって勉強するようになりました。思えば、35歳にもなって企業勤務経験なし、実務経験なし、資格スキル一切なし、という三重苦のような身だったわけで、それを自覚した瞬間から「このままでは自分が企業社会で生き残れる余地はない」と危機感を抱くようになったと記憶しています。


その上、そもそも僕の場合は日本で第一次データサイエンティスト・ブームが始まる前夜というタイミングで「データサイエンティスト」という職名を与えられて働き始めたので、過去に殆ど先例もなければ導いてくれる人もほぼいない文字通りの「けもの道」を行くキャリアを強いられました。勿論、これまでなかった仕事を担うということで新たな地平を切り拓くという意味での楽しさはありましたが、個人的には「前例がなくて理解されない」ことの連続で、相当にしんどかったという思いの方が遥かに強いです。


特に「中途採用として11年遅れでやってきた博士号持ちの新社会人データサイエンティスト」だった身としては、新卒一括採用からのレールにも乗っていなければ、かと言って中途採用で経験豊富な即戦力とも言えず、おまけに博士号持ちということで珍獣扱いされるのが平常運転という有様だったので、日本の企業社会の中では非常に肩身が狭いと感じる場面が数え切れないくらいありました*55。その一方で、多少大学・研究業界に詳しい人たちから「研究者失格のポスドク崩れ」呼ばわりされたことも一度や二度の話ではありません。以前の記事にも書きましたが、企業社会で働いていて博士号(Ph.D)を持っていて足を引っ張られることはあれども、得したと思ったことは殆どないです。


ただ、実際にデータサイエンティストとして働き始めてから思ったのは「自分には研究者よりも企業でデータ分析をしている方が性に合っていたんだな」ということ。程度の差こそあれ、基本的には規模の大きな企業のデータ分析は分業が確立していることが多い上に、論文のようにズッシリ重たい分量で単発ながら超高品質のアウトプットを疎らに出すというよりも、レポートやシステム実装レベルの小さな分量のアウトプットを頻度高く多数出していくというスタイルなので、PDCAサイクルも回しやすくやりがいがある仕事だなと思っています。また、以前の回想記事でも書いたように時として「論文さえ出せればおしまい」となりがちな実験科学研究の世界とは異なり、ビジネスの世界では必ず「その先の続き」があるので汎化性能であったり再現性が問われることが多く*56、どちらかと言うと悪いデータや結果も隠すことなく正直に出していくことが推奨されているというのも、正直者で嘘のつけない性格の僕にとっては有難いことでした。


これらの点からすると僕にとっては研究者稼業というのはただの下手の横好きであり、比較的得意分野だったデータ分析で細かく成果を出していくデータサイエンティストという職業こそが自分にはぴったりだったのかもしれません。僕の口癖である「好きなことで稼ぐのは難しいが、得意なことで稼ぐのは簡単」というのはそこから来ています。


大変幸運なことに、前々職でも前職でも非常に優秀かつ親切に僕のことを指導してくれたり時には叱咤激励してくれる上司や同僚に恵まれ、11年遅れでやってきた新社会人データサイエンティストだった僕でもどうにか統計学機械学習やデータベース技術を駆使したデータ分析をこなせるようになりました。質の低いアウトプットを出すことも多々あった未熟な当時の自分に対して、皆さまが決して見放したりせず辛抱強く接してくださったからこそ、途中でクビになることもなくデータサイエンティストとしてキャリアを積んでこれたようなものです。ここで一人一人のお名前を挙げるのは憚られるので割愛しますが、本当に感謝しても感謝し切れません。


その後のこと


このブログをずっとお読みになられてきた方であれば、企業に転じてからのデータサイエンティストの僕のことをある程度は(ブログを通じて)ご存知のことかと思います。ただ、実はこれまでブログに書いてこなかったことが幾つかあります。以下、それらについて書き記しておきます。

数奇な運命に導かれて


企業に転じてから4年足らずが経った2016年の1月7日の夜。僕はここにいました。

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「生涯二度とこの地の土を踏むまい」と誓ったはずのシンガポールに、僕はGoogleの新入社員研修のために降り立っていました。


遡ること2009年、「次の10年で最も魅力的な仕事はstatisticianだ」と語ってtech業界に統計学の重要性を知らしめたのは、GoogleのChief EconomistであるHal Varianでした*57。この言葉がきっかけとなって2012年頃に「次の10年、『統計分析』こそテクノロジー分野でいちばんホットな職業になる」とtech業界で喧伝されるようになり、その波に乗って僕は企業に転じデータサイエンティストとして採用されるに至っています。また、データサイエンティストとしてデータ分析を生業にする身からすれば、Googleと言えばビッグデータ時代の申し子にして世界を代表するビッグデータ企業でした。端的に言えば、企業に転じた僕にとってGoogleは「一生に一度は入社して働いてみたい憧れの企業」だったのです。


故に、前々職から次を探して転職しようとしていた頃に一度Googleのポジションにreferralなど一切なしで一般応募してみたものの、2年間は正真正銘の梨のつぶてという状況でした。ところが、2015年になってから様々な偶然に導かれて採用プロセスに乗り、2016年の1月にData Scientistとして入社する運びとなったのでした*58


ただ、僕はてっきり新入社員研修と言ったらマウンテンビュー本社に向かうものだと思っていたのですが、実際にはエンジニア職としてではなくビジネス職として入社したので*59、ビジネス職のAPAC地域拠点であるシンガポールに向かうことになったのです*60。研究者を辞めて以降、けもの道みたいな人生とキャリアを歩んできた身としては滅多なことでは驚かなくなっていたのですが、これには大いに驚きました。


しかも送られてきた研修スケジュールを見たら、書いてあったのが「1月5日:朝9時から東京オフィスでガイダンス、1月6日:朝9時からシンガポールオフィスで研修」というジョークみたいな文言。ということで、5日に東京オフィスで簡単なガイダンスを済ませた後、すぐさま羽田に向かってシンガポール航空の夜行便で一路シンガポールへ。チャンギ空港からほぼそのままオフィスに直行して2日間の新入社員研修に参加し、全ての研修が終わった後で「そう言えば」と思い、ホテルから近かったこともあって歩いてラッフルズ・ホテルに向かったのでした。もちろん行き先は、4年前にも立ち寄ったLong Bar。

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日本語には「感涙に咽ぶ」という言葉があります。それまで僕はそれを辞書あるいは書物の中でしか読んだことがなく、そういう概念が世の中にはあるのだということしか知りませんでした。けれども、この時だけは別でした。


例のラボをクビになった時のこと、改革運動が理解されず逆に自分に仇をなしたこと、国内に全くポジションが見つからず絶望したこと、一時は電車に飛び込んでしまおうかとまで思い詰めたこと、その後シンガポールにやってきて研究者としてのキャリアを続けようとしたが叶わなかったこと、そして4年前にLong Barのほぼ同じ席に座った時にどんなことを思っていたか、さらに企業に転じてからどんなことに努力し、どんな理不尽に耐え、どんな幸運に恵まれ、どんな楽しいことがあり、どんな栄誉に浴し、どんな素晴らしい人たちとの出会いと別れがあったか、などなどをグラスを傾け、感涙に咽びながらずっと思い出し続けていました。


その夜、僕はLong Barに4年前に置き去りにしてきた全てを、ようやく取り戻したような気がします。


翌日、僕はシンガポール航空の帰国便に乗って羽田に舞い戻りました。その翌週から東京オフィスで勤務を開始し、今に至っています。その後の僕の仕事ぶりについては、弊社のメディアを通じて公開されているものもいくつかありますので*61、興味のある方はそちらをご覧いただければと思います。



皆さまご存知のように弊社は全世界にまたがってあまりにも優秀な同僚ばかりの会社であり、現在のチームでは極めて素晴らしい上司と同僚の方々に恵まれつつ働かせてもらっています。また、持っていて得したことがないとずっと思ってきた博士号(Ph.D)も、弊社にいる限りはプラスになることも多々あり、有難い限りです*62。正直なところ、仮にも自分が優れた成果を出しているなどとは口が裂けても言えませんが、とりあえず辛うじて穀潰しとか無駄飯喰らいとか言われない程度には何とか仕事をこなしているつもりです。弊社も世間の基準から見れば新し過ぎる会社ゆえいつまで続くか分かりませんし、僕もいつまで居続けられるかは分かりませんが、少しでも長く今の職場で楽しく働き続けられればと願っています*63


また、2017年段階までの振り返りとして以下の2つの記事を書いています。


これらの記事も、僕が企業に転じて以降どんな足取りを歩んできたかをつぶさに記録したものです。個人的には、第一次データサイエンティスト・ブームが勃興するより以前からずっとデータサイエンティストとして働いてきたので、僭越ながら業界の歴史がそのまま自分の企業に転じてからの歩みと一致しているように感じています。


ちなみに、皮肉なことにシンガポールには4年ぶりとなった上記の訪問も含めて2016年には3回も行き、さらに去年も1回行っているので、「二度とこの地の土は踏まない」と誓ったくせにその後4回も行っていることになります。今の大部門の中で仕事をしている限りはおそらく今後何度でもシンガポールに行くことになると思いますが、何を隠そう今では僕にとってシンガポールは世界の中でも一番好きな街のひとつです。自分の人生を二回も変えた、数奇な運命で巡り合った思い出深い異国の街として。

後日談


研究者を辞め、データサイエンティストとして企業で働くようになった後も、僕にはずっと疑問に思い続けていたことがありました。それは「何故他の研究者たちの論文はあんなに綺麗なデータを載せているのに、自分の実験ではどんなに頑張っても綺麗なデータが出てこなかったんだろう?」というものでした。もっと綺麗なデータが沢山取れたら、あるいはひょっとしたらNatureとかScienceとか言わずとも立派な雑誌に論文を載せられたかもしれないし、そうだったならば自分の人生とキャリアもまた違っていたのではないかと。


その答えは、5年後に突然やってきました。

ここでは僕がこの論文を読んで全てを悟った、という事実だけを書き記しておきます。僕がいちいちここで論わずとも、この問題に関連する議論や論争は世の中にそれこそ本当に山ほどありますので、興味のある方はそれらをお読みください*64


日本の研究体制の問題は、僕が研究者を辞めた後も年々深刻化しているようです。旧ブログでは「このままなら日本の科学研究は斜陽になっていく」と繰り返し警鐘を鳴らしていたものですが、実際に斜陽というか右肩下がりの状況であることは間違いないと思います。最近はアジア諸国を含めた他国との競争激化という観点も加わり、どんどん議論が複雑化しているようですが、少なくとも大学教員も若手教員の全体数が減る一方でさらに任期付きの若手教員の割合が増し国立大の運営費交付金も財務省に押し切られる形で事実上の「減額」に繋がる可能性のある傾斜配分枠拡大へと向かい*65、そういう体制全体の体力低下を反映してか総論文数でもトップ10%論文数でも日本は国際ランキングの順位を下げ続けており、基本的にはこの7年間で「良くなった」という話を一度も聞いたことがありません*66


僕が研究者を辞めた頃は「この厳しい状況の中わざわざ研究者の道に進んでくる若者は覚悟があって優秀な人が多いはずなので日本の研究業界の未来はきっと明るい」*67という主張も見かけたものですが、この7年間の推移を見る限りでは特に若手研究者にとって明るいニュースは殆どないです*68。おそらくですが、日本の研究体制はこれからもどんどん坂を転げ落ちるように衰退していくのではないでしょうか。僕はもはや当事者ではなくなってしまったので、当事者の方々が努力してこの苦境から脱してくれることを祈るのみです。ちなみに、政治や行政や世論に向けて研究者の側からアピールするなら「国会議事堂の前から銀座を通って八重洲方面まで研究者が大挙してデモ行進を何度も行う」*69のが最も確実かつ効果的だ、というのは旧ブログ当時から既に例の同志たちの間で言われていたことです。


そしてもう一つ。僕の人生とキャリアを狂わせた旧ブログですが、企業に転じてからもしばらくは登録済み会員のみ閲覧可にしていました。ところがドメインを借りていたさくらインターネットへの入金が2年前のクレジットカードの更新時に滞ってしまい、ドメインごと公開停止になってしまっていたことに数週間経ってからようやく気付くという事件があり、その際に「もう面倒だし、放置し続けたことによるセキュリティ上の懸念もあるし*70」ということで、深く考えずに一切のバックアップも取らずDBごと完全に削除してしまいました。ということで、旧ブログは残念ながら今や影も形もありません。ただし、その残骸と痕跡はあれほど物議を醸しただけあって、極めて疎らですが今でもネット上で見かけることがあります*71


もっとも、この記事が公開されたらおそらくかつて旧ブログについて噂していた人々が再び沢山ネット上に現れて嬉々としてあることないこと論って全力で騒ぎ立ててくれるのではないかと思うので*72、「ああこういう人たちが騒いでいたんだな」とウォッチするのも一興かと思います(笑)*73


最後に


以上、何のオチもない僕のこれまでの人生とキャリアの回顧録かつ懺悔録にして、転落人生から這い上がってきた道のりをたどった半生記でした。結論から言えば、僕が研究者の道からドロップアウトしたのはそもそも単なる自業自得であり、同時にポスドクという生存競争を強いられる環境にありながら無能かつ怠惰で本業以外のことにかまけ、めぼしい成果を残せなかったが故の当然の帰結です。


一方で僕にとって、企業に転じて以降の今現在の人生とキャリアはこれ以上ないくらい満足のいくものです。全くの畑違いの分野の博士号を取得し、社会にはほぼ何の役にも立たないテーマでポスドクとして研究してきた人間が、たかが4年経験を積んだくらいで、今ぐらい面白い仕事を任され、今ぐらいの環境と待遇にありつけるということ自体が、途方もない僥倖です。実際、僕のキャリアは偶然にも統計学機械学習を筆頭とするデータ分析のニーズが社会に増したタイミングで企業に転じ、偶然にも良い上司に恵まれ、偶然にも良い同僚に恵まれ、偶然にも良い仕事のテーマに行き当たり、偶然にも良い職場に恵まれた、というまさに全てが偶然の集合体です。研究者の世界から落ちこぼれていった無能な人間がそんな素晴らしいセカンドキャリアにありつけたという意味では*74、これ以上の果報者はないと言っても過言ではないでしょう。


しかしながら、僕は修士から数えると11年間を今の仕事とは全く無関係なものに費やしてしまいました。しかも、それらが今後自分の人生とキャリアに資する可能性は事実上全くありません*75。これは言い換えると、11年間をそのままドブに捨てたに等しいわけです。人生100年時代と言いますが、それでも11年という歳月は断じて短いものではありません。


そう考えると、僕は人生の時間を11年間犠牲にした代わりに、何かを取り戻そうと必死にもがいてきた結果として、今の立ち位置にいるのかもしれません。自分のキャリアを喩えるなら「11年かけて登った山の中腹から突然突き落とされて奈落の底に落ちてしまい、そこからまた4年かけて『落っこちた高さの分だけ取り返さなければ』とひたすら見知らぬ崖を無我夢中でよじ登ってきたら全く異なる山の中腹にたどり着いたが、そこから望んだ景色は想像や期待を遥かに超えて素晴らしかった」*76というのが相応しいような気がします*77


最後に、絶対に忘れてはならないのが、嫁さんの支えがあったこと。我々が結婚したのは僕が理研BSIのポスドク2年目の時なので、嫁さんはこの一連の出来事の最初期からずっと僕と一緒にいたことになります。僕が例のラボをクビになった時も嫁さんは決して僕を責めたりしませんでしたし、何だかんだで嫁さんが稼いでいてくれたからこそ35歳間近からのキャリアチェンジに打って出られるだけの余裕がありました。そもそも学生結婚したにもかかわらず僕より先に企業就職した嫁さんの助言があればこそ、僕も企業転職に前向きになることが出来たのだと思っています。その上ここに書き切れないほど多くのわがままを、嫁さんにはずっと聞いてもらってきました。言うまでもなく、今の僕があるのは嫁さんのおかげであり、嫁さんには一生頭が上がりません。


今年の6月で企業に転じて7年になるのを前に、これまでの道のりを振り返ってみました。人生とは分からないものだという思いばかりが深まった気がします。

*1:一応親友にして悪友の弁護士に事前に内容を見せて相談したところ関連法規と照らし合わせて「問題なし」とのコメントをもらっています

*2:ラボの中で一人だけ孤立していたという時点で何かが見えるような気もしますが

*3:3年任期1年ごと更新の最初の1年で雇い止め

*4:それらは今を時めく数理工学コースの守備範囲

*5:当時はまだポスドク制度がなかったので、無給で大学に残ってどこかの常勤ポジションが空くのを待つしかなかった

*6:とは言え、4歳上の実家の姉貴に比べれば実はそれでも大したことはなかったらしい

*7:アクセル制御方式を間違えて暴走させたとかエピソードが色々あった

*8:2011年に京大で開かれた国際会議にポスターを出したら国内の偉い先生から「何でこんな前頭葉なんて訳の分からないところをやってるんだ?視覚野から地道にやるのが筋だろう?」と詰められたのを思い出します

*9:当時は中心前溝(precentral sulcus)や上前頭溝(superior frontal sulcus)といういわゆる運動機能関連の連合野に該当する部位の機能が注目されていました

*10:fMRI撮像シーケンスの設定や実際の撮像操作はMRI施設の人に助けてもらうことが多かったですが、ちょっとした撮像シーケンスの改変ぐらいなら自分でもやっていました

*11:僕が書いた乏しい数の論文のほぼ全てでcorresponding authorもしくはonly authorになっているのは、まさにこれが理由です

*12:割と良くあったのが「肝心の自分が被験者になった時のデータが汚い」というケース

*13:大意としては本当にこういうレビューワーコメントをもらったことがある

*14:後述するようにネット上にすらその痕跡も残骸も疎らになってしまったので、ここではブログ名は挙げません。ただし根気良くググれば見つかると思いますし、多分ブコメとかでご丁寧に解説つきで書いてくれる人も出てくると思います笑

*15:当時はまだ邦訳版がなかった

*16:事実上後者の先行研究と等価なlocalizerと呼ばれる関連部位を同定するための視覚刺激を用いていたにもかかわらず

*17:ちなみに2019年現在、その方は弁理士として特許分野でご活躍中の模様

*18:他所に貸し出すなどすれば良かったのにと思ったものだが、そもそもレアな実験用の機器なので他に使う人がいなかったらしい

*19:ポスドクの人件費なんて年500万円もあれば足りるはずなので

*20:当て馬にされた人が大っぴらに不満不平を並び立てるみたいな騒動も見たことがある

*21:他にも科研費の報告書には何と「字数制限」がある上に「字数制限を満たさない報告書を出してきた機関の次年度の科研費の申請書は全て却下する」という規定すらあったので、字数までぴったり収まるようにと厳しくチェックされていた

*22:非常に挑発的なコメントをつけてきた人のIPアドレスを見たら「……」となったことが何度かありました

*23:若手Sしか応募しないつもりだった同僚が、突然廃止になってしまったので若手Aか他の種目に出し直さなければと、慌てふためいていたのを思い出します

*24:確か使っていたフレームワークmixiと同一だったので見かけ上は完全にmixiだった

*25:この後に出てきますが、いわゆる偉い大御所の先生ほど「直接文科省に出入りして口利きや交渉ができるのは自分たちだけ」と認識しているので、そこに何の実績もない若手や中堅が割って入ってきて文科省と意見をやり取りするという行為自体が越権行為だとみなしていたというお話です

*26:虎ノ門文科省本庁まで出向いて会議を開いたことも何度かありました。ちなみにこの頃ついでに「〇〇先生や××先生は頻繁に文科省に直接やってきてはコネを作ったり色々金を得ようとしたりしに来る」みたいな話もだいぶ聞きました。その経験が、のちにナントカ細胞騒動が起きた時に裏側で起きていたことを推測する上で役に立っています

*27:もっとも研究者という意味では本人にとっては畑違いのヒト脳波fMRI同時測定実験に理論的には誤ったリクエストをしてきたりする、色々と難しい人だった

*28:実は現職の推薦状も書いてもらっていて、研究者を辞めた後もお世話になりっぱなしだったりする

*29:言い換えると政治家や文科省の幹部やそれこそ一般世論になるほどと思わせるために、あえて通俗的でキャッチーで誰の目にも分かりやすく注目を集められるようなテーマを広めるということ

*30:〇〇な人の脳の仕組みを調べるという口実で、微妙に近いように見えなくもない分野の研究をしていたが次の行き先に困っていた中堅研究者を焚き付けて無理やり莫大な予算と人員を当てがったという噂は僕も現役当時に聞きました

*31:端的に言うと、とある共同研究先の研究者が業績申告不正まがいのことを行なっていたという噂話

*32:いつからか分からないが、2010年頃から右目の網膜の中心窩に謎のデキモノ(黄斑変性症ではない)が出来ていることが眼科検査で判明し、僅かながら視野中心に歪みが生じるようになっていた。これでは極めて微妙なタイプの視覚刺激を用いた実験の被験者は務まらない

*33:実験デザインの思想や被験者の管理方法などなど色々

*34:3年任期満了なら3年目の年初ぐらいから準備するものだが、この時はいきなり1年で雇い止めを言い渡されたのでそれまで殆ど準備をしていなかった

*35:旧ブログのアクセス解析でIPとリファラの日付を見て判明したケース。なお推薦状に関連するラボ間のやり取りについては明確な情報を持ち合わせない

*36:当時の新聞メディア記事でもNatureとかScienceにまで論文を載せたポスドクが、任期切れで次のポジションが見つからなかったので、派遣社員として不慣れな訪問営業をしているみたいな話が取り上げられていたのを覚えています

*37:その時は結局土壇場で人件費が確保できなかったということで断念した

*38:この時Duke-NUSに米Dukeから赴任してきていた英語ネイティヴの教員とも話しましたが、彼曰くは「シングリッシュは僕にも何言っているか全く分からなくて慣れるのに数年かかったよ」とのこと。また以前嫁さんとシンガポールに行った時についでに弊社のシンガポールオフィスにランチゲストで連れていったら、嫁さん曰く「街中では聞き取れない英語だらけだったのにここに来たら聞き取れる普通の英語だらけで安心した」とのことでした

*39:よって非常に入り組んだ複雑な信号処理が必要になる

*40:指先程度であっても体を動かせば脳波電極も僅かながら動いてしまい、それが超高磁場の中では非常に巨大な電流ノイズを生んでしまう

*41:なので他の個人的な研究テーマで細々と論文を出していた

*42:せいぜいがGranger因果だったりする

*43:そのうち何社かが現職に移った後の僕宛てに首狩りメールを送ってきたのですが、どこもお話にならない待遇で呆れたものです

*44:例えばこんな記事あんな記事を読めば分かりやすいかと思います

*45:前々職の当時所属していた部門で、外国人エンジニア主体の技術委員会を設置してそこに僕も入るという話になった時のこと

*46:こういう老害になるとオファーには回答期限があるということを知らなかったりする

*47:実際にはインターンを開始したのは4月中旬か下旬くらいからだった

*48:文科省に残っているインターン支援事業のサイトにOBOGの行き先などが載っているんですが、これだけ博士の企業採用やポスドクの企業転職が当たり前になった現在から見ると、微妙としか言いようのない進路ばかりだと映ります

*49:理研BSIでは退職願を書かないと組織の存続に関わる危機になるぐらいのことを言われた記憶があります

*50:当時はこの辺は企業となるとしっかりしているんだなと感心したものでした

*51:それまで旧ブログの主張に賛同してくれていた人たちに助けてもらえないかと相談しに行ったら「お前の自業自得だろう、誰が助けるものか」みたいに言われることが相次いだのは結構ショックでした

*52:特定の師を持たない身としては、こうでもしないと(たとえどれほど軽蔑されたり呆れたという態度を取られようとも)積極的に理解の誤りを正してくれたりや不足している知識を教えてくれる人には出会えないので

*53:何を隠そうポスドクだった時分はただの線形回帰すら理論は知っていたもののきちんと理解して使いこなせていなかった

*54:KKT条件の式が視界の上から下まで延々と並ぶとかいう途方もない悪夢だった

*55:肩身が狭いくらいならまだしも、差別に近い扱いを受けることも往々にしてありました

*56:前職時代に当時のお偉いさんから「当たらない予測モデルを当たっていると嘘をついて出すくらいなら『今のデータと技術では予測できません』と言ってくれた方がビジネス面ではずっと大事だ」と言われたのを思い出します

*57:Halには2017年の秋に実際にマウンテンビューまで会いに行ってきました

*58:なので実は弊社の中では稀有なreferralなし採用組だったりする

*59:エンジニア側のデータサイエンティストのポジションが僕が採用プロセスに入る前に東京オフィスからは廃止されていたので、東京でデータサイエンティストの仕事をしたかったらビジネス側に入る必要があった

*60:ただしかつては東京オフィス単独で新入社員研修をやっていたそうなので、ビジネス職に採用されてもシンガポールに送られるようになったのは割と最近のことと聞いています

*61:自分の名前がクレジットされているものだけ挙げると 1. https://bit.ly/2rdQEFi 2. https://www.thinkwithgoogle.com/intl/ja-jp/articles/emerging-technology/ml_creative/ 3. https://youtu.be/PARsDyRJMWE 4. https://youtu.be/jN_pRE0P1GU 本文中にembedされているYouTube動画は4番目です。現在はエンジニア部門ではなくビジネス部門の所属ですが、自分でコードを書いて実装しているものも幾つかあります。また他にも自分のチームで開発したツール・システムを援用した他チームによる成果で公開されているものが複数あります

*62:シンガポールでの新入社員研修時に「今回は光栄にもPh.Dの参加者がいます」と紹介されたのは今でも忘れられませんし、技術的な話題になった時にPh.Dを持っていると(特に他国オフィスの)ビジネス部門の同僚からの受けが良かったり、エンジニア部門の同僚とも対等に技術的な議論をさせてもらいやすいというメリットもあります

*63:たまたまビジネス側に入ったわけですが、データ分析による成果をスケーラブルに展開し、その成果を活かしてプラットフォームとしての立場から同時に幅広く多くの法人のお客様に向けて働きかけることができる、というのが今の仕事の醍醐味だと思っています

*64:良いまとめとしては、例えば再現性の危機 - Wikipediaなど

*65:これは結局先述した「何も分からない政治家や官僚や世論を騙して適当に予算を分捕る」という路線が裏目に出て「即物的に社会の役に立つ成果を出せ」という風潮を過剰に強めてしまった結果だとも言える

*66:Word罫線が廃止されたというニュースがあったような気もするが、確かその件は文科大臣が交代して元の木阿弥になったという記憶がある

*67:旧ブログで「日本の研究業界の未来は暗い」と書いたことに対する反応だったという記憶がある

*68:ノーベル賞など高齢世代の成果が認められるようになった側面はあるが、若手にとって良い話は聞いた記憶がないという印象。むしろ機械学習などいわゆる人工知能分野では若手研究者の企業への流出の方が増え続けている

*69:前職時代、銀座七丁目に勤めていた時は目の前の外堀通り沿いに週に2回ぐらいデモ行進がやってくるというのが見慣れた光景でした

*70:その時旧ブログの管理に使っていたフリーメールアドレスがハッキングされそうになったという形跡があったので

*71:かつての論文レビュー記事を僕自身からの許諾を得て学術雑誌に転載したある研究者の方の総説論文のwebバージョンや、変わったところだと総合科学技術会議の討論資料の中にスクリーンショットが転載されていたりする

*72:前々職を退職する前後まではちらほら旧ブログを叩いていたと思しき人々によるあれやこれやの投稿がネット上に見られたもので、今でも稀に僕のことを名指しで「あんなゴミクズが今は偉そうにしている」などと中傷している御仁を見かけることがあります。もっとも今の業界にも熱心なアンチがいる模様ではありますが(その先のコメントも見るとなお面白いです)

*73:特にはてブブコメ欄は要チェックかと

*74:今や研究者であった6年間よりもデータサイエンティストとしての7年間の方が長いので「セカンド」キャリアという表現は正しくないかもしれないが

*75:あえてポジティブに解釈すれば「科学的方法」を身に付けることができたと言えるかもしれないが、そのために11年間もかける必要はなかったとも言える。また言うまでもなく、ヒト認知神経科学の研究で培った学識を用いる場面は企業に転じて以降1秒たりとも発生したことはない

*76:ある意味冒頭に挙げた写真がその景色かも

*77:そう言えば、以前ask.fmで面白い喩えをしている人がいました https://ask.fm/TJO_datasci/answers/147852693909